<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" version="2.0">
  <channel>
    <title>DSpace コミュニティ: 継続後誌：奈良県立医科大学医学部看護学科紀要（2005年3月から）</title>
    <link>http://hdl.handle.net/10564/1403</link>
    <description>継続後誌：奈良県立医科大学医学部看護学科紀要（2005年3月から）</description>
    <pubDate>Thu, 09 Apr 2026 17:46:16 GMT</pubDate>
    <dc:date>2026-04-09T17:46:16Z</dc:date>
    <item>
      <title>ハイデガーの良心論　責任への促しとしての良心の呼び声</title>
      <link>http://hdl.handle.net/10564/1426</link>
      <description>タイトル: ハイデガーの良心論　責任への促しとしての良心の呼び声
著者: 池辺, 寧
抄録: ハイデガーは、世人へと自己を喪失している現存在も自己固有のあり方ができることを&#xD;
証すために、良心の分析を行っている。最も固有な存在しうることへと促す契機として、&#xD;
彼が提示したのは良心の呼び声である。良心の声とは違って、良心の呼び声は行為をめぐ&#xD;
って叱責や警告を行ったりせず、ただ沈黙という様態をとって自己から発して自己に向け&#xD;
て呼びかけるだけである。そのため、ハイデガーの良心論は一見、他者に無関心であるか&#xD;
のような印象を受ける。しかし、彼は個々の行為の善し悪しではなく、責任を引き受ける&#xD;
担い手としての固有の自己のあり方を問題としているため、そのように見えるにすぎない。&#xD;
固有の自己といえども、他者と共同存在しているのであり、他者から切り離して論じるこ&#xD;
とはできない。ハイデガーは良心を論じるにあたり、他者に対する負い目や責任も併せて&#xD;
触れている。彼の良心論には、他者論も含まれている。</description>
      <pubDate>Sun, 14 Mar 2004 15:00:00 GMT</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://hdl.handle.net/10564/1426</guid>
      <dc:date>2004-03-14T15:00:00Z</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>ケアの倫理　相互依存と責任</title>
      <link>http://hdl.handle.net/10564/1425</link>
      <description>タイトル: ケアの倫理　相互依存と責任
著者: 池辺, 寧
内容記述: 本稿は、2003年11月29日に行われた奈良県立医科大学看護短期大学部公開講座にて講演した原稿に、加筆・修正をしたものである。</description>
      <pubDate>Sun, 14 Mar 2004 15:00:00 GMT</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://hdl.handle.net/10564/1425</guid>
      <dc:date>2004-03-14T15:00:00Z</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>初期ハイデガーにおける生と気づかい</title>
      <link>http://hdl.handle.net/10564/1424</link>
      <description>タイトル: 初期ハイデガーにおける生と気づかい
著者: 池辺, 寧
抄録: ハイデガーは初期フライブルク講義で事実的生の分析を行っている。本稿では、特に自&#xD;
己世界と気づかうことに焦点を当てて、彼の分析を再構成することを試みた。ハイデガー&#xD;
が問題としているのは、自己世界を中心にして展開される具体的なこの私の生、及び生世&#xD;
界である。生世界には同時に、共同世界や周囲世界も含まれている。だが、生世界は自己&#xD;
の状況と密接に関連しているゆえ、まず求められるのは自己世界のあり方を鮮明にするこ&#xD;
とである。このことは、私がいかに生きているのかを解明するニとでもある。生きること&#xD;
とは、ハイデガーによれば、個々の状況において出会う諸対象や出会いそのものを気づか&#xD;
うことである。本稿では、気づかうことの特徴として、誰しも独自の気づかいの世界を有&#xD;
すること、世界は気づかいの仕方に応じて周囲世界・共同世界・自己世界に区分されるこ&#xD;
と、気づかうことが無自覚的な習慣となることにより頽落が生じること、などを指摘した。</description>
      <pubDate>Mon, 10 Mar 2003 15:00:00 GMT</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://hdl.handle.net/10564/1424</guid>
      <dc:date>2003-03-10T15:00:00Z</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>気分について　ハイデガーを手がかりにして</title>
      <link>http://hdl.handle.net/10564/1423</link>
      <description>タイトル: 気分について　ハイデガーを手がかりにして
著者: 池辺, 寧
抄録: 哲学的思索の主題として、気分をはじめて本格的に論じたのはハイデガーである。本稿&#xD;
では彼の分析を辿りながら、以下の点について論じた。ハイデガーは気分を現存在(人間)&#xD;
の本質として捉えた。気分は現存在の内面と外部との、言わば「あいだ」から生じ、思惟&#xD;
や行為に先立って、世界の現れ、他者や事物との出会いに制約を与えている。不安や退屈&#xD;
などの根本気分によって現存在は単独化されるが、単独化された現存在は決して孤独な存&#xD;
在なのではない。現存在は元来、共同存在である。気分は現存在を単独化する一方で、共&#xD;
同存在である現存在を互いに結びつける。もたれ合いの関係を脱し、他者との本来的な連&#xD;
帯を築くためには、現存在は単独化されて自己自身へと絶えず投げ返されることが必要で&#xD;
ある。本来的な連帯に関するハイデガーの記述は不十分であり、従来、批判的に受け止め&#xD;
られがちだが、本稿ではこのような観点から連帯への積極的な可能性について論じた。</description>
      <pubDate>Sun, 10 Mar 2002 15:00:00 GMT</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://hdl.handle.net/10564/1423</guid>
      <dc:date>2002-03-10T15:00:00Z</dc:date>
    </item>
  </channel>
</rss>

